藻谷 俊介

2022年3月8日5 分

覚悟すべきインフレの大きさは

前号で書いた、筆者が前日にフルスケールの侵攻であると確信するに至った「幾多の断片的情報」とは何だったのかと言う問いを頂いた。

1つは演習終了後のベラルーシで野戦病院棟の建設が始まったことである。開戦すればすぐに100人単位で負傷者が出るため、通常の医務車両では間に合わない。もう1つより決定的だと思ったのは、ドネツク(2014年からの親ロシア勢力占領地域)のロシア側で、恐らくは突入の瞬間を撮ろうと見張っていたCNNの特派員が、プーチンが東部ドンバース2州の独立を承認した後、1日以上経ってもロシアの軍用車両が1台もドンバースに入ってはいないと報告していたことである。

プーチンの罠

後者をもう少し説明しておくと、ドンバースの親ロシア勢力占領地域にロシアは正規軍を入れず、ワグネル社という民間軍事会社(かつての米ブラックウォーター社のロシア版)を使って8年間にわたり間接的に軍事支援をしていた。正規軍の航空支援もなく兵員数も十分には確保できないため、実際に2州の半分程度しか占領できていなかったわけである。つまり最初からこの2州の完全支配が目的なら、プーチンによる21日の独立承認と同時に準備しておいた正規軍を入れ、ウクライナ軍を押し出すのが自然だ。それを国境のCNN記者は23日になっても今のところ動きなしと報道していたのである。困ったことにウクライナ陸軍の戦車などの主要機動部隊は、この正面にいた。もともと8年間ここを押さえてロシア勢の侵入を防いでいたのだから退くわけにはいかない。それどころかプーチンの独立承認で侵入可能性は高まったと考えたので、ウクライナ軍(あるいは世界中のメディアや金融市場の関心)はこの正面にますます集中することになった。プーチンは筆者の読み通り、その裏をかいて24日に北と北東(そして南)から侵入した。ウクライナの機動部隊は慌ててキエフ防衛に向かおうとしたが、恐らくはその時点では制空権を握っていたロシア軍機によってその途中でかなり破壊されてしまい、キエフ周辺には現状では少数の戦闘車両しか残っていない模様である。今だにドンバースからはロシアの侵入は見られない。地図の右下に目を惹き付ける罠だったのだ。

ここまではロシアの完全勝利パターンだった。ところが、その後はご存じの通りの状況である。ウクライナ軍は戦車、ミサイル部隊など機動部隊と航空機をほぼ失ったにもかかわらず、携帯対戦車火器と少数のドローン、そして携帯対空ミサイルだけで何とかロシアの機械化部隊や航空戦力と渡り合い、一方でロシア軍は恐らく同胞に対する戦闘に士気が上がらず、思うように前進できていない。

鄧小平の知恵

一般に身内の闘い、内戦のようなものに対応する場合の常套手段は、内なる敵に対する同情心を持っていない兵隊を使うことである。例えば天安門事件の時、鄧小平は天安門広場の学生を鎮圧するミッションに、わざわざ遠隔地の少数民族部隊を呼んで使った。不用意に首都周辺の漢人中心の部隊を使うと、ピケを張る漢人の若い学生に対して引き金を引けず、逆に呼応して反乱になる可能性すらある。天安門から遠くない官衙にいる鄧小平に襲いかかってくることにもなりかねない。結果的に鄧小平は残酷にも鎮圧に成功したのである。

今回のプーチンのミッションでは、同じことは無理だったと言える。軍事演習から突如切り替えて侵攻を始めるという建て付け上、ウクライナ人の親戚、友人などがいない兵士だけを予め選別するのは難しく、できたとしても人数の確保は難しい。前号でも述べたように昔から混在して住んでいるので、命令1つでウクライナ人に冷酷になれるロシア兵は多くはないはずである。逆に攻められたウクライナ人は、ロシア兵には躊躇なく発砲できるだろう。士気に関するこの辺の非対称性を認識する必要がある。

筆者には戦争の終わりはまだ読めない。ウクライナ人が予想以上に健闘してきたとは言え、とても国境までロシア兵を追い返す装備人員はない。停戦が成立する以外には落としどころがないのである。ただあのプーチンが失敗を認めるかどうか。そこにもまだ現実感がない。撤退すれば、ウクライナは今までよりも確実にNATOに接近していくことになるだろうから、作戦は完全に藪蛇だったことになる。狂乱して意地を通すなら核戦争だってあり得る。始まってまだ2週間だが1日1日の経過が長く重く、両国どちらをも疲弊させ、人道危機はますます拡がっていく。プーチンが動かないなら、モスクワ内部での権力バランスが崩れることに期待するしかない。

ジョン・ダワー『戦争の文化』の広告から一文を引用しておこう。「自らに都合の良い思考、異論や批判の排除、過度のナショナリズム、敵の動機や能力の過小評価、文化的・人種的偏見...今もなお世界を覆う戦争の文化」

悪いインフレだけは確実に来る

いま分かっているのは、悪いインフレが来ることだ。図A~Bは、原油価格と商品価格のリアルタイムインフレ率である。これらエネルギーや資源の価格が史上稀に見る水準に上がっているのは既知の事実だが、一般物価のインフレ率に影響するのは、水準ではなく伸び率である。それを測定するには、当社の「速度計」のようなものを比較するしかない。グラフは2枚とも、足元で昨春のインフレのほぼ倍の激しいインフレ(率)が発生していることを示している。

エネルギーや資源のインフレは、少し遅れてPPI、次にCPIへと表れてくる。図C~Dを、原油を含む国際商品価格である図Bと多少のタイムラグも勘案しながら見比べて頂きたい。図Bが昨春の倍の勢いで伸びたと言うことは、世界PPI(図C)にざっくり当てはめると年率20%以上のインフレに繋がるだろうし、遅行して価格転嫁が進んでいる世界CPI(図D)でも年率10%が視野に入るだろう。短期間でコスト構造を変えることは難しい。

日本については図Bと図E~Fとの波形比較となるが、PPIでは年率15%を超えても不思議ではないし、CPIでは滅多に見ることがなかった3~4%が現実的になっていると言えるのではないか。

むろん、これらは月々のインフレの年率換算値であって、瞬間のパンチ力の強さを比較するものだ。インフレが長期化しなければ応分に物価上昇幅は小さくなる。逆に長期化するほどに、市民生活への悪影響は目に見えるものになってくる。プーチンの戦意を挫くためには、我々にも相当の覚悟が必要であることは間違いないわけだ。