藻谷 俊介

2023年4月28日7 分

コロナ拾遺 28 エピローグ

コロナデータの更新は3月末で完全に停止した。過去3年間にわたって毎日、週末でも、旅先でもスクショを取って更新してきたので、止めた後しばらくは喪失感に悩まされるほどだった。日本も含めて全数報告ではない国が大半となって、もはや数値の信頼性が確保できなくなったこともあるが、筆者自身コロナウイルスの追跡に景気判断上の意味を感じなくなったためである。しかし、皮肉にも第9波が始まったことにより「景気判断上コロナは本当にもう考慮しなくて良いのか」という質問を受けることが逆に増えているので、過去に書いたことも含めて今一度まとめておきたい。

データを集めていた期間を振り返ると、世界全体で感染者数(図A)、死者数(図B)ともに激減と言えるほど減っている。もちろん全数把握はほとんどの国が止めてしまっており、実際にこうなっているとは思えない。しかし、もはや真実を世界の誰も気にかけてはいないからこそ、WHOも対策を打とうとはしていないわけで、まさに世界中でインフルエンザ的対応になってしまったのである。

日本は第9波の初動状態である(図C~D、昨日まで更新)。死者数に比して感染者数の減りが大きいが、死者数の方が全数把握に近く、より正確なので、今年3/19の感染者数の谷は昨年6/19の谷よりは高い位置にあると考えられる。他にも、フランス、イギリス、スウェーデン、イラン、インド、アメリカなどで、感染者が再び増える傾向がある。統計と言うものの一般的な性質として、数値の水準はもはや正しくない(減少バイアスがある)としても、短期的な増減方向は大まかに言って正しいと考えられるので、増えてはいると想定すべきである。

終わったのか、始まっていないのか

長年の読者はご承知のように、筆者は毎日コロナデータを更新する中で、2020年の5-6月ごろから「すれ違いざまに遷るような病気ではない」、「これがエボラでなくて良かった」、「コロナは将来の本格的感染症の予行演習」と言うように、不謹慎とは思いつつも、恐怖を宥める発言をしてきた。しかし、志村けんの死などがもたらした当時の世間的な雰囲気は、全く異なるもので、それが大きく変わるには結局2年近くを要することになった。2021年末のオミクロンの登場である。

しかし、0~59歳における流行期の致死率は、最も強力なデルタで約1万人に2人、オミクロンでも約1万人に1人と確率的には大差なく、どちらもインフルエンザ(年齢帯に関係なく約1千人に1人が死亡)よりも圧倒的に小さい。あなたが59歳以下で、今オミクロンを恐れていないのであれば、デルタ以前も恐れなくて良かったのである。少なくとも確率としては。

老人や基礎疾患を持つ人はどうだろう。図Eが示すように、実はオミクロン以降の死者数が絶対数では圧倒的に多い。罹った人が亡くなる確率は減ったが、罹る確率が大きく増えたので、今任意の1人の老人がコロナの合併症*で亡くなる確率は、デルタ以前より高いわけだ。あなたが老人で、デルタを恐れていたのであれば、オミクロンは一層恐れなくてはならないのである。少なくとも確率としては。

*合併症(英Complication=複雑化)とは、元の病気に併発することによって死に至らしめる2次的疾患であり、コロナの場合は心不全、脳梗塞、他の感染症や、一時期より減ったとはいえ肺炎が多い。もともと風邪も、インフルエンザも、直接の死因となる固有の症状はほとんどないため、死は合併症によってもたらされる。コロナはたまたま免疫攪乱によって一部に自己免疫性の肺炎を引き起こしたが、本質においては風邪などと同じく合併症を恐れるべき感染症である。

医の論理による支配

従って、市民としていえば、オミクロンで楽観に転ずる理由は何もない。では世のオミクロン楽観の源泉は何かと言えば、ひとえに医療圧迫の緩和であったと総括するしかないのである。全体から見れば少数ではあったが、デルタまでは肺炎と言う固有症状があり、発症すればベッド、医師、看護師、機器を占有した。つまり「医の論理」に限れば、デルタとオミクロンでは天と地ほどの差があったのである。

筆者の見た範囲では、オミクロンの初期においてまずテレビで楽観論を流布したのは現場の医師たちであった。「これまでとはまったく違う、軽症だ」と。前述の合併症と死者数を考えれば、噴飯物のコメントなのだが、医師の都合からはこういう発言となる。ただ、こうしたメディアからのイメージがきっかけとなり、そろそろ吉報を待っていた人々の考え方が修正され、極端に恐れない考え方に近づいて行ったという印象を持っている。オミクロンは、その出しに使われたわけである。

ただ穿った見方をするなら、そもそもなぜ日本人が必要以上にこの病気を恐れていたのかと言えば、政府がそう仕向けた面もあったと思わざるを得ない。時系列的に言うと、諸外国に比べてPCR検査薬キットがない→ワクチンがない→治療薬がないという、みじめな「三無」をもたらした日本型官僚システムの失敗を補って、当座の医療崩壊を防ぐには、人々を恐れさせて自発的に家に閉じ込めるしかなかったのである。これも1つの医の論理ではなかっただろうか。

日本は今もその後遺症に悩んでいるが、欧米的なコロナ経験はかなり異なっている。当初こそ感染爆発で死者をたくさん出したものの、検査キットを急速に充実させ、必要なら野戦病院を建てて隔離体制を取り、2020年末にはワクチンを打ち始め、2021年春には実質的なコロナ明けに至って、直後からマスクを外し始めている。日本は検査キット、ワクチン、すべてが後手に回り、医師会・病院の協力も不十分なまま時間を浪費し、2022年春に1年遅れで実質的なコロナ明けとなったが、マスクは今もって外せない。ONにもOFFにも上からのメッセージが必要なのだ。と同時に、今回の経験から日本の医療が十分に学んだのかは心配でしかない。いざとなれば従順な国民に無理を強いればいいと、勘違いしていないことを祈るばかりだ。

医療圧迫と言うレッドラインだけは残る

このように振り返ると、景気判断上コロナはもう考慮しなくて良いのかという質問については、「医療圧迫がない限りは」と答えざるを得ない。皮肉っぽく言えば、患者の命よりも医の論理が優先されることが、この3年で改めて分かったのである。今後第9波が隆盛を極めても、今のプロファイルのままで感染者が増えて、死者が増えるだけなら、もはや風邪やインフルエンザの流行と同じように、学級閉鎖まではあっても、ロックダウン的な政策(封じ込め)に訴えることはないだろう。5類への変更とはそういうことである。

しかし、ウイルスが今後の変異によって万一肺炎を引き起こす特性を復活させることがあれば、医療圧迫は再び現実のリスクとなる。累積感染率の上昇とワクチンの普及により、人類はこのウイルスに未知の異物に対する強い拒絶反応(サイトカイン・ストーム)を示しにくくなっており、肺炎復活の可能性は極めて小さくなったと筆者は考えているが、今後の変異で肺炎のみならず如何なる特性を獲得するかは予想できず、慢心は許されない。このウイルスには、基本は恐れすぎず、とは言え甘く見すぎずの平常心が重要である。読者も罹ったらまず十分に安静にすべきであることは言うまでもない。

「コロナ明け第2波」の様相 … インバウンドも含め

最後に経済に目を転ずると、目下はコロナ明け第2波と呼べるような状況にある。2月までデータの入った第三次産業活動指数を使って、状況を見ておきたい。図Fは、人々の移動を示す旅客運送業の活動指数だが、上述の昨春コロナ明け第1波で大きく段差を付けた後、足元2月にもう1つの段差を設けつつある。飲食(図G)、宿泊(図H)にも、同様の2段上げが見られている。ただ、その中でコロナ前に匹敵するところまで回復したのは宿泊だけであり、特に飲食は戻りが弱いように見える。第三次産業活動指数は、実質化された活動(サービス生産)を示すが、計算の詳細が発表されていない。旅客運送業であれば輸送量(人キロ)、宿泊であれば延べ泊数(人×泊)などがベースになっており、そこに質的な変化をある程度反映させていると想定される。実質統計なので価格上昇は含まない。

インバウンドの戻りを直接示すのは、外人旅行(図J)である。これは指数のウェイトが0.02%しかないが、旅行代理店の外国人観光客取り扱い件数などだけを示しているからで、これと連動して上の旅客運送、飲食、宿泊、それに小売、サービスなどにも応分の活動増があったと想定される。図Jは、2月時点でコロナ直前の1/3程度まで既に戻っていて意外に速い。いずれ個人旅行も解禁されるとはいえ、青天井的な期待をすると裏切られることだろう。

また、第三次産業活動指数全体もコロナ明け第2波の様相を示しているが(図K)、無店舗小売業(通信販売業)のようにコロナ引きこもり需要の反動減に悩む業界もあることはお伝えしておきたい(図L)。