藻谷 俊介

2022年6月30日7 分

インフレの実尺

最終更新: 2022年7月1日

市場ではインフレをめぐって引き続き様々な議論や憶測が展開されている。巷のインフレ論の最大の問題は、インフレの大きさや時間軸の数値化などよりも、例えばFedの予測利上げ回数と上げ幅だけが、毎月サッカーの試合のように観戦され、多く論評されていることだろう。これに対して筆者は、ウクライナ開戦後間もない3月8日号『覚悟すべきインフレの大きさは』で、各物価指数のリアルタイム・インフレ率を見比べることでインフレの大きさは予期できることを論じ、その後はグラフの変化をアップデートしながら、見通しを修正してきた。そして6月14日号では、最も川下のCPIにおいても、いよいよインフレのピークアウトが確認できたことを告げた。今回は、もう一度最初からそのロジックと推移を振り返り、今時点で見通せる結論を論じたい。

短い変化率の重要性 ... 短は長を兼ねる

まず、図A~Cである。これが、最も川上にある資源価格やエネルギー価格のリアルタイム・インフレ率(速度計)の推移であり、今回のインフレの大元である。当社の速度計は、対象となる指数の各月時点における直近3ヶ月区間の平均伸び率を年率換算したもので、前年同月比のように12ヶ月累計の長い変化率(インフレ率)ではなく、より足元の短い変化率(インフレ率)を同じく年率で比較することができる代物だ。これらの3枚を見ると、原油価格のインフレ率はもう平均伸び率*まで下がっているし、CRB指数もドルベースではそれに近づいている。円ベースでは目下の円安でその分のインフレが残っているが、資源インフレ率の急落を押し返すような強い円安ではないため、差引でのインフレ率低下は続いている。また、日経商品指数のように同じ円ベースでも、既に平均伸び率近辺に回帰しているものもある。いずれにしても、ウクライナ戦争を発端にした今回のインフレ第3波は、川上ではほぼケリが付いて正常化してきたのである。

*平均伸び率については、どの期間を取るかによってかなり変わる。今般、直近60ヶ月期間の平均(CAGR)で統一したが、あくまで一つの目安と考えて頂きたい。

そして、これらが川下に向かって価格転嫁されてきたわけだ。それらを示すのが図D~Qであり、第1波~第3波が時差を伴って複製されていることはほぼ自明である。そのタイムラグも意外に短い。得体の知れない未知のインフレがここから世界を襲ってくるのではなく、もう最も川下のCPIにおいても4月をピークにインフレ率の正常化に向けた動きが始まっているのである。日本のような、値上げ先送り文化の国でも平均としてはそうである。中央銀行はこの減速度合いを監視して、便乗値上げや買い占めを牽制しつつインフレ率の正常化に向けた道筋を付ければ良いのであって、終わらない戦争と終わらないインフレを相手に、丁々発止の闘いを繰り広げる必要はないと言うのが実像だ。

前年同月比との関係

ここでよく投資家から尋ねられるのは、これら速度計グラフと一般的な前年同月比伸び率との関係である。前年同月比と言うのは、過去12ヶ月の累計変化率であるから、過去12ヶ月のリアルタイム変化率を累計したものと同義である。従って、例えば図Eで言うなら、12個の●で示した伸び率の平均が凡そ前年同月比(直近5月で+8.6%)と同じと言うことになる。当然であるが前年同月比インフレ率が示しているのは足元のインフレ率ではなく、昨年の第1波や第2波も含めた長期平均と言うことである。

次に尋ねられるのは、前年同月比はこれからどうなるかと言うことだ。それは図Eにおいて、一番左の●が外れ、右に●が一個加わることが繰り返されることで決まっていく。右に加わる様子が分からないので単純に予測はできないが、第1波、第2波と同じく着実に低下すると考えるなら、前年同月比伸び率は目先4ヶ月は高止まりするが直近の8.6%を大きく超えることはなく、その後は徐々に低下するだろう。ただ、我々が前年同月比を予測することに意味はない。なぜなら前年同月比は後付け的な見せ方に過ぎず、長期平均ゆえに遅行するからである。それに合わせて政策を打ち出していたら、判断が遅れて失敗してしまうのだ。Fedが筆者と同じ図Eを見ているかどうかは知らないが、必ず同様な短期の変化率を見て利上げの効果測定をしているはずである。つまり図Eが今のように10%近く高いのなら(前年同月比はどうであれ)0.75%の利上げもするし、低くなれば(前年同月比はどうであれ)利上げはせずに済むということである。前年同月比は後から付いてくる。すでに一部の地方連銀総裁は利上げ回数の削減に言及しており、それは図Aに始まる変化を見ていれば頷ける話である。

米サービスのインフレ

図D以降のグラフのうち、第3波のピークアウトが済んでいないのは、中国のコアCPI(図N)とアメリカのサービスCPI(エネルギーを除くコア、図G)の二つである。前者は6月に低下することが見えてきたが、後者は今のところ良く分からない。このためある機関投資家からは、資源インフレとは別のインフレの発現可能性を問われたこともあった。ただ米サービスCPIの上昇原因を細目別に調べると、そのほとんどが航空運賃の上昇によるものである。航空運賃はエネルギーではないがエネルギーに準ずる項目であり、また脱コロナでこのところ急速に需要が回復していると言う特殊要因もある。一般的なサービス価格インフレには見えない。もう一つのポイントは、アメリカの雇用の増加は堅調ながら、これもリアルタイムの速度計で見ると急速に減速して正常化(平均速度)に向かっているということだ(図R)。資源インフレではない、雇用の増大による賃金上昇という教科書的なインフレが、今になって起こってくるようには見えないのである。

沈むマネーサプライ

図Sは、第1波~第3波における世界マネーサプライのリアルタイム伸び率である。昨年解説したように、第1波は①バイデン小切手、②ワクチン楽観、③スエズ事故が重なってインフレになったものの、マネーサプライ伸び率は平均以下であり、主体は需給逼迫を見越した調達の前倒しなどによる思惑先行のインフレだったと想定できる。第2波は3つの中では一番地味だったが、中国の緩和転換やIMFのSDRバラマキでマネーが伸びて、パウエルも方針を厳しく転換するきっかけになった。第3波はと言えば、マネーサプライの伸びはアメリカを中心にどんどん低下しており、実物景気回復によるインフレと言うよりは、あくまで戦争によるインフレと形容すべきものであるように見える。従って、こんな中から好景気型のインフレ(賃金上昇あるいは需要過大)が登場する可能性は少なくとも年内は低いと考えている。

やはりインフレは沈静化する

このように考えてくると、実態以上に膨らまされたインフレ像は遠からず維持できなくなってくるだろう。そうなれば状況に順応するのが速いFedも、ハト派に転換してゆくだろう。日本は図Lが示しているように、今後リアルタイム・インフレ率が多少高止まりしても、前年同月比(直近12ポイントの平均)で3%を超えることは終ぞなさそうであり、その意味では利上げを急ぐ理由はインフレからは出てこないが、経済の健全な運営から言えばゼロ金利は異常であり、やはり正常化への動きを模索することになると思う。今はいわば日米の金融政策の乖離が極大化した状態であり、少し先を読めばそれが歩み寄りを始めることは必至である。

つまり円安はいつまでも続かないと筆者は考えている。世界がインフレに見舞われても、日本が相対的にディスインフレであることに変わりはないため、購買力平価(PPP)はますます円高に振れており、現在は1ドル97円程度である(図T)。アベノミクス以降、相対的な円安(青線が赤線の下にある状態)が続いてきたが、ここまで乖離するとどこかでPPPに向けた転換が起こってくると考えるのは不自然ではあるまい。日本の没落と相俟って制御の効かない円安になるリスクを憂国的な日本人は怖れているわけだが、恐らく外国人はまだそこまで日本が劣等生だとは思っていないというのが筆者の体感である。であれば、乖離しても図Tはまた収斂することだろう。空中戦続きで高度感覚を失わないようにしたいと思う。

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